shirabeの調べ
小公女
「小公女」をご存知でしょうか?
Francess Eliza Burnett作の児童文学における不朽の名作です。
おそらく一度はお読みになっているのではないでしょうか。
実はこの作品、私にとって世界でいちばん影響を受けた大切な物語なのです。
お話はセーラ・クルーという少女がイギリスの上流階級の子女教育を手がける
ミンチン女学院に入学するところからはじまります。
彼女はフランス人の母とイギリス軍人の父との間に生まれ、
大尉である父の赴任先インドでプリンセスのように何不自由なく恵まれた暮らしをしておりましたが、
幼くして母を亡くし、娘の教育に不安を感じた父によって
立派なレディーになるべくイギリス本土の寄宿学校に入れられたのでした。
セーラの父はひとり娘をこよなく愛しており、
彼女のためならば世界中のドレスを買い占めてしまえるような人でした。
当然学院では他に例のない特別待遇を受けます。
セーラ個人用の馬車、ふたつ続きの広い部屋、専属のメイド、華やかなドレスと調度とお人形。
どれもが常識では考えられない、まさしくプリンセスと呼ぶにふさわしいものでした。
しかしそれは父の死によってまったく突然にすべてが夢のように儚く消えてしまいます。
友人の多額の借金を肩代わりしてこの世を去った父のたったひとりの大切な娘は
一転して学院の屋根裏に住まう下働きへと変わってしまうのです。
有名なお話なので知っている方も多いでしょうが
暗くて嫌いという方も時々いらっしゃいます。
確かに子どもの読み物としては暗いかもしれません。
けれど私はこの物語が大好きなのです。
最初に読んだのは5歳くらいの時でした。
簡単に直されたものでしたが、なにをそんなに心とらえられたのか
それからこの歳まで何十冊という訳書を読み漁っております。
文学全集では同じバーネットでもなぜか「小公子」を取り上げられることが多いですよね。
それでもごく稀に「小公女」の作品紹介などを目にすると
セーラはこの上もなく「優しい良い子」であるかのように表現されていて
私は「違う!!」といつも感じていました。
「小公女」を嫌う人に理由を聞くとセーラが偽善的であると言う人も多いのですが、
私の「違う!」という思いはそれともまた異なります。
セーラは「優しい」。
「小公女」を読んだ人はよほどひねくれ者でないかぎりそう思うことでしょう。
確かに彼女は優しいのです。
しかし私はそれをあたかも聖女のごとく褒め称えるのには疑問を感じます。
「どんな過酷な境遇においても優しさを失わなかったセーラ。
蔑まれ疎まれ虐められても、人の痛みを理解する優しさを持っていたからこそ
最後に彼女は幸せを手にした…」
少しおおげさに書いてはいますが実際そのような認識ではないかと思います。
けれどそんなキリストのような人間が存在すると思えますか?
しかも彼女は年端もいかない少女です。
私は絶対そんな子どもは存在しないと考えます。
両親や多くの人々に愛され育てられたセーラ。
彼女を取り囲む世界は彼女に対して限りなく善意に満ち溢れたものでした。
彼女は愛されることを当然とし、人の好意を受け入れることにも疑問なぞ感じたことなどないでしょう。
それを悪いこととは言いません。
受けた好意にいちいち過剰に感謝や疑惑を感じる環境よりもむしろ幸せなことです。
しかし、そのような環境に育ったセーラが他人に優しいのは当然のことなのではないかと思うのです。
彼女から他に向けられる優しさは信念や道徳観が命ずるところのものでなく
自ら与えられ続けてきた優しさを、ごく自然な流れで『返して』いただけなのではないでしょうか?
一夜を境に彼女を取り巻く環境は激変いたします。
当たり前に彼女に優しさを与えていた世界は突如として辛く厳しいものに姿を変えたのです。
戸惑ったことでしょう。今までそんな仕打ちをするものは存在しなかったのですから。
自分の運命を呪って眠れぬ夜を過ごしたこともあったかもしれません。
飢えと寒さと極限の疲労の中で、セーラは少しづつ
「こういう世界」が存在したことを理解したのではないでしょうか。
セーラがまだ学院のプリンセスであった頃、下働きのベッキーという少女に
お菓子とつかのまの安息のひとときを提供したことがありました。
ベッキーはこの小さなプリンセスの『慈悲』を泣くほど喜びましたが
セーラはこう言って彼女に微笑みかけるのです。
「私、こう思うの。私が私で、あなたがあなたであることは本当に単なる偶然で、
もしかしたらあなたは私だったかもしれないし、私はあなたかもしれないってね。
だから私がいまの私であることはなにも特別なことではないのよ?」
ベッキーはこのプリンセスの『優しさ』に感動し、セーラのためならば何でもしようと決意します。
しかし、この時セーラは「屋根裏」を知りません。
ベッキーに与えた『優しさ』はあくまで自分が受けてきた優しさと同等のものであって
思いやリや同情というよりもむしろ、与えられるままに与えた自然なものだったのです。
自分と相手の立場が違ってもその優しさは当然与え合えると信じる無垢な優しさ。
それは考えようによってはひどく残酷なことです。
与えられることのできる人間とそうでほない人間がいることを知った時、
セーラは初めて「優しさ」という言葉の意味を知ったのではないでしょうか?
それまで「優しい」という言葉は「空は蒼い」だとか「夜は暗い」だとかいう
状態を表すのとなんら変わらない外面的な印象であって
その人自身の在り方を評する言葉でなかったように思えます。
苦しみと悲しみを知った人間こそが人の痛みを分かり、本当の優しさを感じることができる。
与えられ続けてきた幸福はいつしか麻痺して、その時はけして実感することはありません。
失ってこそ初めて自分が幸福であったことに気付くのです。
私はセーラを幸運な少女とは思いません。
優しさが幸福を呼ぶのは与えた同じだけの優しさが辺りに満ちている時だけでしょう。
崩壊した幸福の前で正しく自分の運命を見据え、
優しさと同じくらいの強さを持って、なおもプリンセスの誇りを失わず
未来を勝ち得た少女だと思います。
セーラは真に強かったからこそ人間の弱さや優しさを感じることができたのです。
優しさに身を委ねるのは弱さでしかないのですから。
与える優しさよりもむしろ「勝ち得る強さ」を持ったセーラに私は魅力を感じます。
「小公女」にはラビニアというセーラより少し年上の少女が登場します。
彼女は自分が幸福であることを疑わず、他の誰よりも自分こそが幸せになれるはずだと思っていました。
すべての人間は自分に優しくなくてはならない。
自分を特別に愛さなくてはならない。
ラビニアを見ているとそんな強迫観念に囚われているような苦しさを感じます。
そのように彼女が思うのは、現実にはラビニアが「そうでない」ということを意味します。
無意識の中で渇望しているものを生まれながらにすべて持ち合わせている人間を見たとき、
彼女はどのように感じたのでしょうか。
自分が満たされていないことを認識することへの「恐れ」、
あるいは「怯え」を、彼女は「憎しみ」にすり替えることで心の安定を図ったのです。
なんとも哀しく、愛すべき『愚者』ではありませんか。
人間の感情(よくぼう)にあまりにも素直なラビニアを見ていると
数々の意地悪すらも可愛く思えて仕方ありません。
私はラビニアをセーラと同じくらい愛しています。
同じバーネット作品でも「小公女」は「小公子」と大分違います。
「小公子」はアメリカに住むセドリック・エロルが主人公で、
父親の急死からイギリスの名門貴族・ドリンコート伯爵の孫にあたることが判明し、
亡き父に代わり世継ぎとして城に迎え入れられるという典型的なシンデレラストーリーです。
セドリックは一貫して「優しく」「純粋」で、この世の天使という書かれ方をされているだけでなく
(実際、作中には彼を”救世主”と表現している部分があります)
「執着」や「欲」といった人間臭さをすっかり欠落させています。
「僕はなにもいらないから他の人にみなあげてほしい。
そう繰り返す彼をどう感じたかは語るまでもないでしょう。
この作品はバーネット自慢の息子(次男のビビアン)のことを書いたものだと言いますが
自らも認めているように『理想の子供』
…つまり実在しえない天使を書いているのです。
世界中は誰もはじめから善人ばかりであると信じて疑わないセドリックを
私は幼い頃から好きではありませんでした。
「善人ばかり」
自分も優しくするんだからあなたも優しくしてよ!
どうしていじわるするの?
本当のあなたは優しいに違いないのに!
…そうやって自分の価値観を押し付けているような気がしてならなかったのです。
片腹痛かったのはセドリックのこんな言葉でした。
城中で世継ぎの地位を固めつつあった頃、
突然ずっと昔に伯爵に勘当された長男…
つまりセドリックの父の兄にあたる人の妻と名乗る女性が
自分の子供を連れて「自分の息子こそが真の世継ぎだ」と現れるシーンがあります。
「僕はお城を出て行くのですね。」
城内の庭園を老伯爵と歩きながらセドリックは呟きます。
「そのう…、もうひとりの子っていうのが、…あの、今度から、
いままでの僕みたいに…おじいさまの子になるのでしょう?
僕、広いお部屋もたくさんのおもちゃもいらないけれど、
僕じゃない子が孫になっておじいさまのおそばに居るのはなんだかとても嫌なのです。」
私は苦笑しました。
それはまさしく私の考える『天使』そのものの答えだったからです。
自分が満たされている時にしか無償の愛と優しさを与えることのできない『天使』。
おじいさまの孫がイコール広いお部屋とたくさんのおもちゃであるということに
彼は気付いていないのでしょうか?
「優しい人」という表現にはいつも疑問を感じます。
「優しく」て「思いやり」があって決して怒らず、すべてに寛大で、人の苦しみに涙を流す。
私にはそれらが価値観の押し付けに思えて仕方ありません。
セドリックの優しさは与えつづけるもの。
自分が我慢をして人に与えることで幸せになったつもりでいる。
そんな優しさに思えてなりません。
自分を折ってまで他人に『優しく』するのは、それこそ偽善でしかないと思うのです。
私はつらい時につらいと言えることのできる人が好きです。
つらい時期を耐えて過ごすのはとても大変なことです。
それを「つらくない」と言うのは、そんな自分に酔っている証拠のようで
あるいは、実際はちっともつらくないのにつらそうに見せかけているだけなのかと思います。
つらい時はつらい、苦しい時は苦しいと自覚してこそ、
本当に幸せを感じることができるはずです。
それに自分を幸せにできない人が、どうして他人を幸福にできるでしょうか?
私は性善説(孟子)の支持者ですが、『生来の優しさ』は信じません。
生まれた時から優しい人間なぞいないと思っています。
なので厳密には性善説と多少異なります。
私の言う性善とは、どんな人間も生まれ落ちた瞬間は
まったくの無垢であり罪のない存在であるという考えです。
完全無欠な人間などありえません。
すべてに無垢であるということは悪でもないかわりに善でもないのです。
傷付いたり迷ったり悔やんだり喜んだりしながら、私達は生きています。
本当に小さな時から私達はたくさんの人間からそれを自然に学んでいるのです。
たっぷりの愛情と優しさをそそがれた子供は
ごく自然にそれと知らず優しさを他人に向けるようになるでしょう。
以前、友人が私を評して「優しい」と言ったことがありました。
けれど私は自分を優しいとは思いません。
その日はLIVEで私は同行した友人のほかに年下の少女をひとり預かっていました。
彼女は妹の友人でLIVE初参加だというのでいっしょに連れて来てあげたのです。
彼女の祖父が危篤に陥ったと報せが入ったのは楽しいはずのLIVE直後のことでした。
私達はこれから遊びに行くつもりでいましたが、急遽予定を変更して
いちばん速い手段を調べ、彼女を家に帰すことにしました。
山手線もよく分からないような年下の子でしたから、保護者として面倒を見るのは当然のことです。
なるほど、こうして文章にするとさぞかし立派な心がけに見えることでしょう。
しかし、私は自分がしてもらったことのある範囲での心遣いしか出来ません。
つまり、私が彼女にしてあげたのは、どこかで私がしてもらったことなのです。
友人が私を優しいと感じたのは、私との付き合いの中で初めて触れた一面であったからでしょう。
他人を優しいと感じるのは相手が自分の想像を越えたリアクションをとった時だと思います。
「優しい」という言葉は便利です。
優しいと言われて嫌がる人はおそらくいないでしょう。
けれど『優しさ』とはどんなものですか?
どんな形でどんな色をしたものなのでしょうか?
そんなこと誰にも分かりません。
なぜならそれはひどく曖昧なものだからです。
ある人にとっては優しさでも、別のある人にとってはそうでないかもしれません。
万人にとって共通の優しさなんて存在しないのです。
それを特定の人間を指して『優しい人』と言うのは盲目的なのではないでしょうか。
確かに優しいと感じさせるのですからその人は優しい気質を持ち合わせているのでしょう。
しかしそれはその人の一部であって全部ではありません。
それを無視して優しさの部分だけを称えては、その人物を愛するつもりで実は一面しか認めないという
とても酷いことをしているのではないでしょうか?
優しい人というのはこの豊かな世の中、本当にたくさんいます。
相手に合わせるだけの優しさならば本当にたくさん。
けれど問題にすべきは環境が作り上げた自然の気質なのです。
生きることは大変で、生きている以上は誰もが幸せでありたい。
そんなひとりひとりの人間が懸命に生きているさなか、
どれだけの人が自分姿勢を守りつつ周りを気遣えているでしょうか?
私はそれこそが本当の優しさであると考えます。
優しさは強さとともにあって初めて意味を成すのです。
セーラの優しさはまさに強さから生まれたものでした。
なにも知らずに安穏と恵まれた生活を送っていた彼女の「優しさ」と
屋根裏で育まれた「優しさ」はまったくの別物です。
人間としての強さ。
人の幸せを祈る人よりも、自分を含めた皆で幸せになろうと努力する人。
そんな強さと同義にある『優しさ』を持つ人間に、私はなりたいと思うのです。